ただの人生論

人生の思った事を書きます

川崎の無差別殺傷事件に思う

本稿には、特段の結論もなければ、社会に対して最適解を示すものでもない。ただ私の感じた事をいたずらに綴っていくだけだ。 (被害者の方々には心よりご冥福をお祈りします)

先日、私事ではあるが結婚式へ行った。とても良い結婚式であった。新郎や新婦も家柄がよく、双方共に、親に感謝の意を何度も述べていた。回りも涙を流していた。私も深く心を揺さぶられた。結婚式にはもう何度も参加しているが、私は結婚式を挙げてない。配偶者こそいるものの、親とは絶縁状態であり、まだ若い頃だった私は親と共に結婚式を挙げるのがこっぱずかしく、また親も、親で私との記憶らしい記憶もないのであろうから、結婚式をやらないと告げた時、少し安堵の表情を浮かべた事を今でも覚えている。

人には様々な背景がある。親に恵まれ、周りに恵まれ、為に愛され、為に愛していく人間。 反面、親に恵まれず、周りに恵まれず、社会から疎外されてしまう人間。 今回のような事件が起きるたびに、私は思う。何故、私は殺人を犯さないでここまで来れたのかと。彼らとの違いは何だろうかと。などと言うと私は今後も殺人を犯さない事を前提としているが、人生というのは何が起きるか分からない為、彼らと同じになっている可能性も勿論ある。 私も、人に言えるような育ちはしていない。今まで出会ってきた人々に過去や家族の事を聞かれると、概ね適当な嘘を並べ、誤魔化してきた。私は犯罪者に共感はしないが、彼らが抱えているものは分かってしまう。何故共感しないのか、見ず知らずの人間を殺そうと思った事がないからだ。彼らが抱えているものは何か。それは孤独感であろう。家庭に問題があった人間の孤独感というのは根深い。最初から何かが欠けている状態であれば人は異常だとは思わない。本人でさえも気づいていない場合が多い。いつだったか、酔った母と妻が会話をしている中で、母がへべれけになりながら、「私は子育てをされた経験もなければ、した経験もない」と妻に何度も語っていた。母もろくな育ちをしていないのだ。母の精一杯の言い訳を私は理解できた。 話を戻そう。私は、私がなぜ犯罪者にならずに生きてこれたのか分からない。合わせて、一線を超えてしまった彼らが、なぜ一線を超えてしまったのかも分からない。私と彼らの何が異なっているのだろう。ずっと考えてきている事であるが答えは見当たらない。社会は彼らを責める。当たり前だ。私も彼らが憎い。しかし、彼らの大多数が私と同じ物を抱えていると知ると、(とりわけ凶悪犯はほとんどがそうだ)私は閉口してしまう。上記の幸せな結婚式を挙げた夫婦の目には一線を超えた彼らがどう見えるのだろう。私は気がつくと、いつも自然と彼らの側に立って、事件を見ている。私のような人間こそが、彼らを励まさなければならないと思い、前述の「結局の所、人間の価値は最初の環境からの上がり幅だと思う」や「貧乏な家に生まれても人生終了させない術」を記した。私と同じ彼らの為に、せめて人生に意味と秩序を示したいと思ったのだ。人として欠けた人間が同じく欠けた人間を励ます。それは結婚式で親に感謝の意を述べる事以上に、崇高な行為であり、こんな誰にも期待されてない馬鹿馬鹿しい人生に、深い意味と意義を与えてくれるものであると信じている。

被害者の方々には心よりご冥福をお祈りします。