ただの人生論

人生の思った事を書きます

結局の所、人間の価値は最初の環境からの上がり幅だと思う

彼は医者なんだ、と知り合いから他者の話を聞いた。聞くと、祖父の代から医者であったようで彼で三代目だそうだ。他方、私がまだ学生だった頃、気の優しく、ひょうきん者だった旧友とよく遊んでいた。仲良くなるにつれて、彼は次第に自身の背景を私に語っていった。父が蒸発した事や、厭世観などを。近しい環境だった私は、共鳴した。人生なんて、選ばれた少数の者だけがその喜びを享受できるものだと本能的に悟っていたから、彼の言わんとする事が、なんの疑念もなくすっと理解出来た。仲違いをしたわけでもなく、派閥の違いによるもので、自然と彼とは関わる事もなくなった。 次に彼の話を聞いた時は彼が少年院に入った後であった。はたから見れば、人気者気質であった彼を思い返して、途端は泡を食ったものの、一呼吸した後の感想は、さもありなん、であった。彼の家も訪れた事がある。私の生家にも似た、汚い六畳一間だった。母と子、確か妹もいると言っていた。彼の話をした友人は「しょーもない」と嘆息を付いていた。 資本主義という仕組みを最も端的に言ってしまえば、自由な世の中であるという事だ。少年時代、机を並べて共に勉強した同級生と私は勿論、平等だ。無論、平等に扱われた。反面、私の親と隣にいる同級生の親は、この自由な世の中で生きている。金を浴びるほど稼ごうが、働かないで生きようが、勝手なこの世界に屹立している。勘違いしないで頂きたいのだが何も私は、格差が悪いんだと言うつもりは毛頭無い。資本主義には問題点も多いが、現状では最も優れた経済体制だ。それに異を唱える気は微塵もない。ただ生まれた時の天秤に於ける、下がってしまった側の人間は、その後のあらゆる勝ち負けにも負けてしまう可能性の方が高い。天秤のもう片方が気にした事の無い事で、日夜悩ま ずにはいられない。この差はなんであるのだろうか。私も、塀の向こうに行った彼も、とりわけ図太い訳ではない。感受性はみな同じであるのだ。そんなこの世の軋轢に彼は耐えられなかったのかもしれない。努力すれば良い。自由な世の中なのだから。それはそうだ。私もそう思う側の人間だ。しかし、本稿の核心はそこではない。たとえ、過酷な環境に生まれても、等し並に生きていきたいと思う、人間もいるはずだ。そんな人間に私はこう伝えたい。君が普通に生きる事は凄い事なんだと。 例えば、あまり良くない例えではあるのかも知れないがこの世の赤ん坊、ひとりひとりが生まれた瞬間から、投資対象だとして、金融市場に公開されるとしよう。すると、どちらを市中の投資家は評価するだろうか。

1、両親共々、大卒で大都市に住む、金持ちの赤ん坊 2、中卒でシングルマザーの下に生まれた貧乏な赤ん坊

客観的な事実を言うのであれば、どちらが将来多くのリターンを産む可能性があるのかは明白である。要するに、命の重さには違いはないが、命の価値には違いが出る。 つまり、極論を言えば医者の子は医者であり、その逆もまたそれであるのだ。 その他の人よりも価値のない命を与えられた人間が等し並に生きている、大変立派なのだ。勉学の価値も教えられず、意志とは理性なのだとも学ばせてくれず、家庭の温かさも、真っ当に生きる背中でさえも見させてはくれない。塀の向こうに行った彼が今はどこで何をしているのか、今となっては知る由もない。もし、当時の彼に今の私が何か言えるのであれば、こう言いたい。俺たちが悪の道へ堕ちて行く事なく、真っ当に生きている事は、それだけで価値のある事なんだと。与えられた運命に抗い、それだけで運命をねじ伏せ、乗り越えた価値のある意味深い生なのだと。他者よりも幾度となく生と死に向き合った意味深い体験を経て、なんてことのない、瑣末な「普通」を手にした誇るべき姿を目指して、頑張っていこうと。そう告げたい。他者にはどうってことのない普通の人生に見えるかもしれないが、そこには幾千の壁と誘惑を乗り越えた反骨の意志が備わっている。世間的な尊敬や成功、それも確かに素晴らしい。しかしもう一つ、男の人生には与えられた運命に抗い、それを乗り越える醍醐味もまた、一方では残されているのだ。